こんにちは、久家です。
ここ1ヶ月
ラグビーW杯2023を
食い入るように観ています。
前回の日本大会から
ラグビーというスポーツに
興味を持つようになって、
今回は日本戦に限らず
色んな試合を観ているのですが、
負けた試合後の
選手たちのコメントを聞いていると
日本選手と他国の選手が
あまりにも違うことに気づきました。
日本の松田力也選手は、
4試合を通して大活躍したにも関わらず
「勝てなくて悔しさしかないし、
たくさんの応援があって、
勝って恩返しがしたかったが
申し訳なく思う」
と泣きながら
インタビューに答えていました。
一方、他国の選手は…
「仲間や国を誇りに思う。
これ以上、何もできない。
アイルランド代表は
信じられないような場所だったし、
別れるのは寂しい。
この場所にいられたのは素晴らしいこと」
(アイルランド代表主将 セクストン選手)
「すべてが私たちの望む形に
なりませんでしたが
これまでの5か月間、
このチームで一緒にやってきたことに、
信じられないほどの誇りを
感じています。」
(イングランド代表主将 ファレル選手)
日本の選手も他国の選手も
共通して
相手チームへの賞賛
負けたことの悔しさ、
周囲への感謝の気持ち
といったことはコメントしていました。
しかし印象的だったのは、
日本選手は
「申し訳ない」と涙し謝罪、
外国人選手たちは
「やれることはやった」
と清々しい表情。
どちらが良いと感じるかは
人それぞれだと思いますが、
世界一のハードワーク
と言われる練習をしてきた
ラグビー日本代表チーム。
悔しい結果でしたが、
あれだけの感動するプレーを
見せてくれたにも関わらず
「申し訳ない」
という言葉が出てくるのは
ちょっと寂しい感じがしました。
もっと自分を誇ってほしいなって
個人的には思いましたね。
前置きが長くなってしまいましたが、
日本の選手と他国の選手のこの違いって
どこから来るのでしょう?
僕は
自己肯定感の違い
だと思います。
自己肯定感っていうのは
僕らの日常の中でも
とても大事な要素になるものです。
そこで今回は
「自己肯定感」
についてお伝えします。
「身の丈を知る」の意味
「身の丈を知る」
「身の程を知る」
という言葉がありますが、
これらはとても大事なことだと思います。
ただこれ…
独特のニュアンスがあって
「お前なんて大したことないんだからな」
っていう含みを持って
「身の丈を知れ」
と他人に言う人が結構います。
実際に言葉の意味を調べると、
自分の能力や地位やお金(稼ぎ)をわきまえる
といったことが書かれていますが、
僕はそういう意味では捉えていません。
丈とは「長さ」。
なので
「自分は身長が170センチです」
みたいなことを知っておくこと
身の丈を知るとは
ただそれだけのことだと
僕は解釈しています。
プラスの意味でもなく、マイナスの意味でもなく、自分を客観的に理解できている状態
これが
身の丈を知っている
ということだと思います。
自己肯定感って高めるもの?
「自己肯定感」
昨今よく聞く言葉ですが、
あなたはこの言葉、どう思いますか?
「今の自分でいいんだ」
「自分は大切な人間だ」
「自分は価値のある人間なんだ」
みたいなことを
上で書いた「身の丈を知る」という意味で
捉えることは大事ですが、
無理やり自分を肯定するのは
なんかちょっと違う感じがします。
自分の身長が170センチであることを
受け入れるのと同じように
「今の自分を受け入れること」
自己肯定という言葉を
僕はそういう意味で捉えています。
プラスでもマイナスでもなく
「当たり前のこと」なんです。
世間ではネガティブな人に対して
「自己肯定感が低い」
みたいに使われる言葉になっているから、
自己肯定感というものは
高めるべきもの、
プラスにもっていくべきもの
のような印象を持ってしまいます。
しかし、自己肯定というのは
ネガティブな感情を無視して
ポジティブにもっていくことではありません。
一旦
「今、自分はネガティブなんだ」とありのままを受け入れること
これが自己肯定です。
今と全く同じ人生、
もう1回やりたいですか?
人間誰しも
いろんな後悔ってあると思います。
あの時ああしとけばよかったなぁ
こうしとけばよかったなぁって…
そういった後悔を
何かしらの出来事とか
出会いとかによって
全て受け入れられる瞬間って
あるものです。
「あの時後悔していたあれは
ここにつながっていたんだ」
「この素晴らしい体験のために
あれはあったんだ」
そう思えた瞬間に
自分の過去、人生が肯定されます。
自己肯定とは…
「自分の過去との和解」
と言ってもいいかもしれません。
「自分ってすごいんだ!」的なことを
思う必要は全くなく、
過去を肯定して受け入れていくこと。
「俺はできる!俺はできる!…」みたいな
変な自己啓発で言われるようなことを
自己肯定と捉えている人が
多いように感じますが、
そういうことではありません。
自分は自分の人生で輝けばいい
あの人はあの人の人生で輝けばいい
っていう風に
自分の人生を受け入れて、肯定して、「もう一回でも、何回でも、この人生やりたいです!」って思える状態
これが広い意味で
自己肯定できている状態だと
僕は思っています。
今の自分の人生と完璧に同じ人生が
もう一度繰り返されるとしても
それを歓迎できるかどうか
そういう生き方をしてきたかどうかを
自己肯定という言葉に
問われているような気がします。
これからの未来に何が起こるかは
僕らにはわかりませんが、
自分の過去全てと
和解が成立する瞬間が訪れることを信じて
今日を生きるべきだし、
明日も生きるべき。
そういう生き方をしていくことで
自己肯定できる自分になれると思うんです。
過去の後悔の大きさは
人それぞれですが
数日でそう簡単に
和解できるものではありません。
自己肯定感が高いとか低いとか言いますが、
そもそも自己肯定とは
高い低いと言うものではなく、
長い時間をかけて作り上げる状態のこと
僕もまだまだ過去の全てを
受け入れられているわけではありませんが、
身の丈を知り、
自己肯定できる自分になるために
1日1日を生きていきたいですね。
「自己肯定感が低い」
と言われる僕ら日本人…
低いと言われると
高めたくなるものですが、
そうではなく、
自己肯定できる自分を
時間をかけて育んでいきましょう!
今日も最後まで読んでいただきありがとうございました。
久家
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