こんにちは、久家です。
前回は、
「自分は今思っているよりも
既に幸福である」
ということを
コミュニケーションの鍵となる
「言葉」に着目してお伝えしました。
何も意識せずに生きていると
世界は7:3でネガティブに見える
ということをお伝えしましたが
どうでしたでしょうか?
このことを前提にぜひ
ポジティブな言葉を
意識して使えるようになってくださいね。
今回は
コミュニケーションということを
さらに深掘りして
「幸福」について
考えていきたいと思います。
痛みは避けられない
コミュニケーションを考えた時に、
相手になるのは、
家族であれば、
親、夫、妻、子供…
会社であれば、
上司、部下、同僚、他社の社員…
学校であれば、
先生、友人、先輩、後輩…
その他、
ご近所さん、ママ友、趣味仲間…
など
関わる人は全て「他人」です。
言い方を変えれば、
自分とは違うという意味で
異質な人
とも言えます。
そんな異質な人たちと共に
何らかの関係を築きながら生きていく
ということを考えると…
もちろん
楽しいこともいっぱいあります。
嬉しいこともいっぱいあります。
でも
辛いこともいっぱいあるでしょう。
なぜなら
自分とは異なっているわけですから。
「自分の考え方とは全く違う」とか
「自分の生き方とは全く違う」とか
そういった異質さが存在するわけです。
そして、
その場合に生じる
【痛み】や【苦しみ】は
避けて通れないものであるように感じられます。
実際、
異質なものと一緒に生きていれば、
痛みは避けられません。
「転んだ」みたいなことです。
転んで傷を負ってすぐ
痛くなくなることはできませんよね。
これは人間の機能です。
ケガをして痛みを感じることで、
それ以上危ないことをしなくなるんです。
他人に自分を否定された時
心が痛くなりますよね。
これも機能です。
心の痛みを感じることで
否定した人と距離を置いて
自分を守ろうとするんです。
このように
痛み自体は悪いことではないですし、
むしろいいことです。
体の痛みにせよ心の痛みにせよ
それが何かを教えてくれているわけです。
無痛症という病気がありますが、
これは危ないです。
2階から落ちても痛くも痒くもないわけですから。
子供であれば
ちょっと目を離してしまうと
血まみれになっていたりするので
非常に怖いです。
無痛症は極端な例ではありますが、
痛みを感じるということは
ものすごく重要なことなんです。
痛みに強い人は…人の痛みが分からない!?
体の痛みを感じる能力と
心の痛みを感じる能力は
比例するということが
分かってきています。
痛がりの人は
一見弱虫に見えるんだけど、
人の心の痛みがすごく分かる人です。
合理的に痛いことを判断しているわけではなくて
感情的にあわあわしているわけですから
非常に感情的なものが豊かな人とも言えます。
逆に、
痛みに強い人、
特に男性であれば立派に見えますが、
人の痛みが分からない人が多い。
昭和世代であれば
「男だったら泣くんじゃない」
的に育てられていると思いますが、
そうやって育つと…
人の痛みがわからなくなるんですね。
だから一般的に
男性の方が冷たいんだと思います。
冷たい印象があると言った方がいいですかね。
「それぐらいのケガで何騒いでんの?」
っていうのは大抵男性の方です。
僕は中学、高校時代
野球部に所属していたのですが、
試合に出るために
レギュラーになるために
毎日ハードな練習をやっていました。
毎日毎日
ハードに練習をしていれば
肩が痛い、肘が痛いといったことも
当然のように出てきます。
しかし痛くなっても…
絶対に言いませんでした。
それは
「試合に出られなくなるから」
痛くてもひたすら隠していましたし
痛みを感じた時は
「気のせいだ」
と思うようにしていたのを覚えています。
中学・高校の6年間で
この感覚が染み付いて、
自分の体の痛みに鈍感になっていたので
その後、特に20代の頃は
おそらく
人の心の痛みがわからない人間だったと思います。
そんな僕自身が
変わることができたのが
この仕事を始めてからです。
いろんな患者さんと接する中で
体のことだけでなく
それぞれの夢や目標、悩みなどを聞くようになり
相談に乗ったりすることも増えてきました。
そうやっていくうちに、
少しずつ人の気持ちを考えられるようになり
人の心の痛みみたいなものを
意識するようになりました。
僕は学生時代はずっと理系の人間、
感情よりも理性で物事を考え、
人の心の痛みが分からない
しかも体育会系
冷徹というか…
マッチョというか…
そんな人間でした。
今振り返ってみると
よくこの仕事を選んだなって思います。
自分のことを
客観的に見れていなかったんでしょうね(笑)
理性だけで物事を考える
マッチョな生き方では
これからの「女性性の時代」を生きていくのはとても無理。
少しずつではありますが、
僕自身も
時代に適応してきているのかもしれませんね。
苦しみは選択するもの
痛みというのは
ケガをしたり、
病気になったり
心を傷つけられたり、
一度負ってしまうと
その後治りますが
避けることができないものです。
一方
苦しみは避けられます。
苦しみというのは選択するものなんです。
痛みは避けられませんが、
苦しみは避けられるものです。
僕は大学の野球部時代、
三年生の時に肩を痛めて
ボールが投げられなくなった経験があります。
二年生の時に痛みを我慢して投げ続けて
結局肩が悲鳴をあげたのです。
病院、整骨院、鍼灸院…
どこにいっても全く良くならず、
「このまま投げられず終わるんじゃないか?」
という不安を抱え、
大好きな野球を楽しめていませんでした。
たまたま先輩の紹介で
ある理学療法士の先生のもとでリハビリをするようになり
四年生の最後のシーズンには投げられるようになったのですが、
このリハビリ中は
ボールも投げられず、
苦しいトレーニングや
地道なトレーニングばかりでしたが、
とても前向きに取り組むことができました。
同じ肩の痛みに対して、
病院、整骨院、鍼灸院に行っていた時は、
三年生のシーズンは試合に出ることができない…
チーム内のライバルが活躍するのが悔しい…
このまま投げられずに終わるのではないか…
そんな事ばかり考えていて
自分で自分を苦しめていました。
一方、理学療法士の先生のリハビリでは、
四年生の最後のシーズンに投げられるようになる
ということだけを考えて
毎日リハビリに打ち込んでいたので、
他の選手がどうだとか、
投げられなかったら…とか
そんなことは全く考えていませんでした。
その結果、
リハビリ中に苦しいと思った記憶はありませんし、
ちゃんと最後のシーズンに投げられるようにもなりました。
同じ肩の痛みに対するリハビリで、
一方は苦しみばかりを感じながら…
もう一方は
苦しみを感じず
むしろやりがいすら感じながら…
これが
苦しみは選択するもの
という意味です。
苦しみは、
自分で自分を追い込んでいるから生じることです。
外的なものからは発生しないです。
痛みは外的なものから発生します。
そして痛みがきっかけで
一時的に苦しみが発生することはあるけど、
健全な状態なら、
痛みの消失とともに苦しみも消えます。
苦しみだけ残っているとしたら
それは自分で自分を追い込んでいるだけです。
この状態が区別できない人が多い。
痛みと苦しみを混同している
そのせいで行動がおかしくなっている
というのがいろんな所で見受けられます。
痛みと苦しみの混同は非常に危険です。
痛みと苦しみを区別して、
苦しみを選択しないようにしましょう!
誹謗中傷する人なんて僅か数パーセント!
痛みから逃げようとすることは
やってもしょうがないことです。
痛みは避けられないので。
でも
苦しみを選択しないということは
自分の意思でできるものです。
今何かに苦しんでいる人も
その苦しみを選択しないということは
できるんです。
ただ、これはかなり難しい
前回から繰り返しお伝えしていますが、
人は何も意識せずに生きていると
世界は7:3でネガティブに見える
ただでさえ私たちのフィルターはネガティブなので
苦しみを選択すればするほど
フィルターは濃くなっていき、
世界の10割がネガティブに見えてきます。
これは明らかに正しい状態ではないですよね。
「世界が10人だったとして、
1人は味方、
1人は敵、
後の8人はどちらでもない人」
とよく言われます。
だけど私たちは
ネガティブフィルターがかかっているから
1人の敵に出会うと
10人が全員敵に感じるんです。
ネット上の誹謗中傷コメントで
苦しんでいる人っていうのは
そう見えているんです。
誹謗中傷コメント書いてる人なんて
全体の1〜3%
そんなもんです。
残りの97〜99%は
好意的であるか
どちらでもないか
なんです。
だけど、
「こんなに叩かれて…」
みたいな気持ちになって、
命を絶ってしまう人まで出てくる。。
これは
ネガティブフィルターがかかっているからです。
苦しみを選択し始めた人は
このフィルターがどんどん濃くなっていく
その結果…
何があっても不幸に感じてしまったり、
全ての出来事が自分を苦しめるためにある
と思えてくるんです。
この状態になると大変危ないです。
SNSでの誹謗中傷のニュースは
ここ数年目にする機会が増えています。
誹謗中傷することは
あってはならないことだと思いますが、
これだけSNSが普及した今の時代を考えると
おそらくなくなることはないでしょう。
自分が誹謗中傷を受ける側になる可能性も
ないとは言えません。
日頃から
苦しみを選択しない生き方をすることは
これからの時代を
幸福に生きていくためには
必要不可欠になってくる
と僕は思います。
苦しみを選択しないことが幸福の土台
この
苦しみを選択しない
ということを、僕は
幸福の土台
だと考えています。
幸福そのものというよりは
幸福の土台。
苦しみを選択する癖がついてる人は
幸福の土台がないということです。
土台がなければ
どういう時代になるにせよ
その人は幸福になりづらいですよね。
少なくとも
苦しみを選択しない生き方をするんだ
と強く意識して生きていかなければ、
幸福になる土台はできないということになります。
繰り返しになりますが、
苦しみは避けられます。
苦しみというのは選択するものなんです。
苦しみを選択しない生き方をして
幸福になる土台をしっかりと作っていきましょう!
次回は
苦しみを選択しない生き方を
さらに掘り下げていきたいと思います。
P.S.
昨年、
イチロー選手が
智弁和歌山高校の野球部を指導する
ということが話題になりました。
その時のインタビュー動画が
YouTubeに上がっていて、
イチロー選手が
「教育」について語っているのですが、
めちゃくちゃ響きました。
この中でイチロー選手が言ってることは、
スポーツの現場だけではなく、
学校
家庭
職場
あらゆる教育に共通することだと思います。
興味のある方はぜひご覧になってみてください。
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